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バロックからロココ美術へ

バロックからロココ美術へ

1661年の親政開始とともにルイ14世はヴェルサイユの造営に着手した、その後数十年の王の在位期間を通じて、そこに広大な庭園と壮麗な宮殿が整備されていった、王の日常は朝の着替えから就寝に至るまでがその舞台で演ぜられる荘重な儀式であった、彼は二十四時間を公人として生活し、神から与えられた王権の行使者としての役割を演じ切ることのできた最後の王であったといわれる、太陽王を主役とする儀式は壮麗な舞台を必要とする、建築や庭園は雄大な規模と壮大な様式を備えなければならなかったし、絵画や彫刻は絶対王権思想の基礎にあるキリスト教の信仰や古典古代文化の伝統に汲んだ主題を。王立アカデミーの推奨する古典主義的様式で表現するものでなくてはならなかった、1715年のルイXIV世の死去とともにこうしたすべてに対する反動が起こった、ルイXV世幼少時の摂政時代く1715-1723>から親政時代<1723-1774>の前半は、すべてが太陽王一人に結び付いていた窮屈な状況からの解放の時代であった、芸術活動にもその傾向は顕著である、前時代の芸術の壮大さ、儀式性。観念性に替わって、軽妙酒脱さ、自由奔放さ、親しみやすい日常性と感覚性が新時代の芸術の特徴になった、この時代の美術は一般にロココ美術と呼ばれている、ロココの語源は、バロック庭園の人工洞窟に付された貝殻などを並べた装飾の名称ロカイユである、そして1730年代に当時流行していた複雑精妙な曲線からなる装飾デザインがロカイユと呼ばれ始めた、ロココの語は新古典主義時代に、ルイXV世時代の美術に対するものとして生まれたが、現在では中立的な美術史用語としての市民権を得ている、当初は装飾デザインに関して使われたロココの語は、今では漠然と1710年代から60年頃までの特にフランス美術の様式名、ひいてはこの時代の文化全般を指す語として用いられることが多い、したがって時にはまったく相反する性格の美術や文化現象がロココの名称の下に括られることにもなり、そのことは美術史上文化史上の新たな問題となっている、

ロココ肖像画
モーリス・カンタン・ド・ラトゥールは完璧なパステルの技法を駆使して、才色兼備をうたわれたポンパドゥール夫人の姿を描いた、この時代の肖像画や肖像彫刻にはモデルの顔に一瞬の動きを与える微笑を好んで表現する傾向がある、また、たとえばジャンーマルク・ナティエがコンデ公爵夫人をデイアナとして描いた作品のように、貴婦人を神話の女神に見立てて描く肖像画も流行したが、これは芝居や扮装に対するロココ的な好みの表われであると同時に、ギリシア神話という西洋文明の恒常的要素への暗示によって伝統との結びつきを図ろうとしたものでもあろう.
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