世界の美術中心地が国でも個人でも栄光を掴む
世界の美術中心地が国でも個人でも栄光を掴む
「無」からプラクティカルな「有」を育てる環境や社会もまた、残念ながら為政者の賢愚に大きく左右されます。たとえば、第二次世界大戦前、美術の中心といえば、パリでしたが、戦後半世紀を経て、美術の世界的な発信地はニューヨークやロサンゼルスといった米国に、完全に移ってしまいました。
大戦中、自由な発想で世界の美術思潮をリードしていた欧州の優れたアーティストの多くが、ナチス・ヒトラーの迫害を逃れて米国に亡命しましたが、戦争末期から戦後にかけ、その影響の中から、美術復興の狼煙をあげたのが、ヴィレム・デ・クーニング、ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコなどの抽象表現主義者たちでした。以降、リチャード・ハミルトン、ロイ・リキテンスタイン、クレス・オルデンバーグ、アンデイ・ウオーホルのポップ・アートが勃興、さらにさまざまな流れのコンセプチュアル・アートの花盛りへと続きました。
これらすべての世界の新しい美術思潮の発信者となったのは米国で、同時に、「無から有を生む」アートを息長く活性化した米国社会は、並行して、政治、経済面でも、いわゆる「パックス・アメリカーナ」からソ連崩壊による単一世界覇権超大国にいたるまで、その当否はともかく、少なくとも今日までは、繁栄を謳歌する時代を迎えているわけでしょう。
これらの教訓は、われわれ個人にとっても大切で、ハートやソウルに響く「無」のエネルギーによるオリジナルな発想をもつようにすれば、われわれ自身、より奥行きの深い豊かな人生をエンジョイするための、よすがとなるのではないでしょうか。
今日の常識でいえば、「真」は真理を追求する科学、「善」は人のなすべき規範である道徳、もしくは宗教、「美」は芸術、ことに美術と言い換えることもできるでしょう。
しかし、現実の社会では、真から生み出された核爆弾や遺伝子工学は、従来の善の概念を一挙に覆すほどの破壊力をもち、最近のコソボ紛争の例でいえば、爆弾で他国民を殺傷することが、覇権国にリードされる過半の世界世論としては善とされるなど、大きな矛盾と混乱を生じていることは否定できません。そして、いちばん、普遍の価値をもつように思われてきた美についても、 一九一〇年代のマルセル・デユシャンの、量産品に署名するだけで、男性便器や雪かきシャベルなどをアート作品に移行させ、伝統的なアートの固定概念やアウラ(後光が射すような権威性)で装われた手仕事を嘲笑する「反芸術」「反アート」の考え方や、 一九三〇年代の、映画や版画などの複数芸術のオリジナル性を考察したW・ベンジャミン、さらには第二次世界大戦後のポップやコンセプチュアルなどの革命的な潮流も流れ込み、「美」の概念も大きく揺らいでいることは確かでしょう。
とはいえ、人は、個人的な利害、関心とは無縁で、知覚や感覚や情感を刺激して、精神的な快美感や安らぎを引き起こす感覚造形である美術を、生のかぎり求めてやまないことも確かなのです。
二度とない人生を、より快美に、より豊かに、そして、より深く導いてくれる美術とそれを取り巻く美術市場の現状と美術品にアプローチする具体的なHOW TOをリサーチするために書かれたものです。
ナビ